伊文神社の歴史
伊文神社はおよそ1,150年前の平安文化華やかなりし頃、第五十五代文徳天皇の皇子八條院宮が、渥美郡伊川津の地より当地へ御轉住の折に、随遷し奉祀されました。八條院宮は、文徳天皇の皇子とも弟とも云われ、朝廷の命により吉良(現在の西尾)の地を根城にして略奪を繰り返していた兼光・兼盛という二人の逆徒討伐の為、西尾の地に赴かれました。その際に屋敷の東西に御祀されていた、天王社(伊文神社)と八幡社(御劔八幡宮)を随遷されたと伝わっております。
社名については、三河國神名帳には『正三位内母大明神』と記され、天王社、天王宮、伊文山(いもやま)牛頭天王(ごずてんおう)、伊文山天王宮等と称しましたが、文政の頃には伊文山とつくと寺院の山号に紛れ易いとして、伊文社(いもんしゃ)となり、明治維新以降は伊文神社とされ、現在は「伊文さん」「祇園さん」等と親しまれています。
承久(1219~1222)の頃より、本所の総産土神、総鎮守として西尾城主を始め士民一般の崇敬厚く、城主が入部、帰城の際、及び正月には必ず参詣がありました。特に夏の祭礼はその盛大さから祇園祭と称され、神輿の渡御を中心に六ヶ町(天王町・肴町・本町・中町・幸町・須田町)の神賑行事も盛大に町中総出の賑わいで、西尾の町の風物詩として広く親しまれてまいりました。
また江戸の世になってからは、最高位である正一位を宣下賜わり、徳川幕府より朱印地十八石五斗の寄進を受けるなど益々神威を増し、祇園祭においては祭事を厳ならしめんと西尾城主より遣わされた鉄砲・弓・槍等を神幸行事に随行させ、また祭費を奉納することが通例となっていきました。
昭和54年1月1日夕刻、不慮の火災にて拝殿及び琴平社拝殿が焼失するも翌年には御社殿再建委員会が組織され、委員各位の弛まぬ努力と氏子崇敬者の素晴らしきご厚志により、コンクリート造の御社殿として見事に復旧いたしました。
御劔八幡宮の歴史
伊文神社の歴史を振り返る中で重要なのが、兄弟社とも云える御劔八幡宮の存在です。御劔八幡宮は伊文神社と共に八條院宮に随遷し、松山(現在の西尾市山下町)に祀られました。
足利義氏が承久の乱での功績により三河国守護職に任じられた際に、この地に城(西條城)を築くにあたり、松山にあった八幡社を奉遷し城内守護の神として本丸に御祀りされました。その際、義氏は北条政子より授かった源家所縁の髭切丸という宝刀と源義家が用いた白旗、社領六百石を御奉納され、爾後御劔八幡宮と称されるようになりました。
徳川家康が関ケ原の戦いへと赴く途中、宝刀の切先を西へと向け勝利を祈願すると、東軍は見事に勝利を収めました。時の西尾城主田中吉政公は関ケ原の戦いで得た武功を宝刀の御力であると、戦地で使用した陣太鼓を奉納し、以降の祭礼時に使用されるようになりました。また関ケ原の戦いが開戦すると、本殿が隣国まで響き渡るほどの大音響と共に鳴動し、勝利を収めた際には拝殿前六尺四方に雪が降り積もったという伝説もあります。
江戸に入ってからは三河五社八幡の一に数えられ、徳川幕府より朱印地五石を寄進されました。安政元年には伊文神社と共に、神階正一位を宣下賜りました。